「将棋には、本当にいろいろな指し方があるんですよね。」
2003年、大学3年生の冬、当時住んでいた滋賀県草津市から電車圏内の滋賀県長浜市で竜王戦七番勝負(羽生竜王-森内九段)の対局が行われることを知り、大盤解説会場に足を運びました。そこで、偶然にも面識のある観戦記者の方とお会いし、控室の検討、局後の感想戦を見学させていただけることになりました。震えるほど洗練された空間、時間が昨日のことように思い出されます。
冒頭の言葉は、感想戦後の打ち上げで羽生先生と初めてお話しした際、一番印象に残った言葉です。(憧れの存在との初対面で、天にも舞い上がる気持ちだったので、何を話したのかほとんど覚えていません 笑)
当時は、将棋を始めてから7~8年、数学的なゲームである将棋には絶対的な解(=最善手)が存在する、と捉えていました。棋譜並べでは、羽生先生の指した手が最善手、と言っても過言ではないような前提で勉強していました。
その羽生先生ご本人が、いろいろな指し方がある(自身が対局で指した手は、数ある指し方の一つに過ぎない)、と目の前で仰った。この言葉から、それまでの自身の将棋観が根底から覆されるほどの衝撃を受けました
それから20年ほど経ち、今もこの言葉の本当の意味を理解できている自信はありませんが、このように解釈しています。
将棋には、この1手しか成立しない、という局面は実は少ない。AもBもCも甲乙つけがたく一長一短でどれを選んでも一局(=いい勝負)という局面が本当に多い。
現在は、AIの評価値によりこの手が最善手と断じられる機会が多くなっているが、それは、その他の全ての手が疑問手、悪手という意味ではない。AIには、それぞれの手に評価値の優劣があるかもしれないが、ほとんどの人間(少なくとも私)には、誤差の範囲であり他のいくつかの手を選んだとしても勝敗には全く影響がない。
この教室の名前”かむがふ”(考えるの語源)には、考え方(戦略、方針)が確からしければ手段(打ち手)はいくつもある、という意味も込められています。
将棋は、いろいろな指し方が成立しうる、個性が出せる、多様性が担保されたゲームであること。
個性溢れるメンバーが集い、多様な意見が提示されるオンライン勉強会を通して、お伝えしたいことの一つです。